平成26年10月25日鹿児島の伝統行事「妙円寺詣り」に参加いたしました。

●10月25日(土)鹿児島の伝統行事である「妙円寺詣り」が挙行されました。本年度の学舎連合会総代を四方学舎がつとめました。9年ぶりであります。

薬丸自顕流顕彰会は宗家・理事長以下、本部道場、東京道場の門人一同が甲冑武者姿にて参加、行軍そして伊集院徳重神社にて御祭神島津義弘公の御霊に対し奉り祭文奏上の誉れに浴しました。

祭 文 (原文は縦書き)

 

時維れ平成二十六年拾月弐拾伍日、関ヶ原合戦の記念日に当り往時を偲び御祭神

島津義弘公の御神霊に鹿児島市学舎連合会総代四方学舎舎生、薬丸自顕流顕彰会東京道場師範和田博温謹みて我らが赤心を捧げ奉ります。

義弘公は天文四年伊作亀丸城に生を享け御祖父日新公、御父大中公、御兄龍伯公の教えを仰がれ、日新公の伊呂波歌、文之和尚の碩学、ザビエルの聞き学等を学び、文武兼ね備えた大器として早くから嘱目される御存在でありました。

御年十九の秋、帖佐岩剣城の戦に初陣を飾られて以来、蒲生、菱刈、木崎原等の戦を経て三州を平定さらに龍造寺、大友の諸将を降し九州の大半を制覇されました。

また、文禄慶長の役に於いては各地に勇を振るい特に泗川新寨の戦いには五千の寡兵をもって明韓連合廿十万の大軍を撃破、我方の戦死わずかに二名という大勝を得、鬼石曼子の偉名を大陸・半島の敵のみか四百余州あまねく轟かせられたのであります。

後、公は敵味方供養の塔を高野山等に建立されました。かくの如く戦時にあっては果敢なる勇将であられましたが平時は文教を奨め産を育て民生の安きを図られ「子は国の宝なり」と教えられた雄藩島津第十七代の英君であられました。

然乍維新公八十余年の御生涯、大小五十余度の合戦中最も異彩を放ったものは慶長五年秋すなわち只今より四百拾四年前の関ヶ原の戦いであります。時に公は徳川方の誘いに応じず薩摩隼人の精鋭一千を率いて小池に布陣されたのであります。

諸将の不和、小石川の裏切り等によって西軍は総崩れとなり、島津勢は敵の大軍の中に孤立したのであります。この時義弘公は後醍院宗重等の進言を容れ徳川本陣の正面突破を敢行されました。島津豊久、山田昌巌、阿多盛淳、川上四郎兵衛等の勇猛激闘、主将を先行させたのち決死の士が次々と座禅するが如くカマッテ、所持の鉄砲を轟発させ終わると最後尾につき、これを繰り返した薩摩独特のステガマリの戦法が語り草となるのもこの時であります。

烏頭坂、牧田を経て伊勢路へ進み東軍の重囲を脱したのは主従わずかに八十余名でありました。

戦運に恵まれず石田三成らへの献策も容れられなかったとはいうものの一貫して敵に背を見せざりし気迫こそ薩摩士魂そのものであります。

時に義弘公御年六十有五、転往時を追想い公の心中を偲び奉り幾多先人の苦難を思えば誠に感慨切なるものがあります。今尚事ある毎に奥歯を噛みながら「チェストー関ヶ原」とおらぶ隼人の気概は薬丸自顕流の雄叫びと共に我等の魂の中に活き続けております。

念えば古来三州の地は、すめらみくにひのもと、皇国日本発祥の聖地であり三州の民は悠久三千年の歴史に与かり島津家歴代の英主を戴き士魂を培ってきたのであります。

今や我国は虚りの平和に溺れもっぱら苟且偸安を事としていわれなき隣国輩の侮りを受けしかもなお廟堂に奉ずべき高位高官自らの恥を知らずして恬として権を振るい古来の醇風美俗は失われ殊に偏向せる報道機関や教育による年少者の道義的退廃は目を覆うばかりであります。

この時にあたり我々薩摩に生を受け三州の遺風を継いだ者が感奮興起、祖国を背い郷を興すの気概を示すは当然であります。

只今維新公の御神前に額づき薩摩士道未だ地に堕ちざるを御神霊に告げ、薩摩士魂の気魂が巨火と燃ゆる日の近きを信じ更に御遺徳を蒙り国家有為郷党振興の材たらむと誓うものであります。

義弘公の御英霊願わくば我等の赤心を御照覧御加護をたまわらん事を。

 

平成二拾六年拾月二拾五日

鹿児島市学舎連合会総代四方学舎舎生

薬丸自顕流顕彰会東京道場師範 和田博温